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演劇集団キャラメルボックス「無伴奏ソナタ」2回目 [CARAMEL BOXの事]

芸術の秋。というわけで、観劇。
9月26日から10月18日までの間に、7回芝居を観る予定。「7作品」ではなく「3作品」同じのを複数回観るので(^_^;)。チケットファイルが大変なことになっております。

さて、「無伴奏ソナタ」ですよ。2回目です。
さすがに、前回ほど泣かなかったが、前回とは違う場面で泣きそうになりました。
今回は「善意(無知)からのエゴ」と「幸せ=諦めることから生まれる」に意識がいった。

ブライアンは、クリスチャンを周囲の「歌え」という要求から救おうとした。それぞれが自分の都合で、クリスチャンに求めた。それが、クリスチャンに何をもたらすかも知らないで。
レコーダーを渡したリスナーも彼に


政府のいう「不幸」は、諦めず何かに挑戦したり悩み続けてたり悲しむ事。そうならないように、最初から夢や望みの芽を摘んでおく。適性検査によって、「他に挑戦しても無駄、君はこう生きなさい」とされる。そうすれば、君は挫折もなく脱落もない。
何かを望んでしまったら終わりだよ。どうせ報われはしない。不幸だよ。処罰だよ。

クリスチャンは、そんな状態の世界に抗った。音楽を望んでしまった。
音楽の天才は止まれなかった。
音楽が好きでたまらなかった。

でも、望みを諦めた凡人にとって天才は
眩しい。
妬みが生まれる。
自分も挑戦したくなる。
挑戦しても挫折し「不幸」になる。
そこへ、「クリスチャンの存在は周囲を不幸にする」といってウォッチゃーがやってくる。

最終的な罰として、クリスチャンはウォッチャーになる。
周囲には彼に何かを求める人もなく、静かな時が訪れる。


彼がウォッチゃーになったことに、「なぜ、同じ苦しみを与える側になるのか」と納得出来ない人もいると思う。
セリフには「その凶器を芽のうちにかりとった」とある。
都合がよい解釈かもしれないけど、「人々を不幸にする前に刈り取った」。完全に凶器になる前に止めた。
クリスチャンで言うなら、ピアノを弾く前にピアノを消せばいい。
シンガーに憧れるギエルモを別の現場に移せばいい。
誰かを傷つける前に、法を犯す原因となりそうなものを排除していったのではないか。
誰かに奪われないように、自分がウォッチゃーなった。誰よりも、その気持ちがわかるから。

すべてに解放されたとき、「他人を不幸にしていたかもしれない」という考えからも解放された。

世代を越え、時代も越え、バッハの様に永く称賛され喜ばれる音楽を残せていた。
諦めのような幸せだったけれど、最後には報われていた事を知り、やっと本当に幸せを感じる事が出来た。嬉しかったろうなあと思う。

クリスチャンの人生に触れ、最後に拍手喝采を贈れたことを、私自身、幸せに思う。
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